私の学生時代(若さの夢をかけたグライダー)

神商18回生 松原 好角

昭和16年12月8日の大東亜戦争の発表を、体育の時間に、竜神ヶ丘の校庭で、校内放送で聞いた記憶が残っております。その後、戦争が各地に拡大されるに及び、私達商業高校にも、陸軍部より現役の将校が配属されてからは在校生全員、毎月1回は、閲兵分列行進(上級生は三八歩兵銃、下級生は背嚢のみ)を行うと共に週2時間は、教練という課目で、歩兵の訓練、木銃による銃剣術等、現在の陸上自衛隊の初歩的集団訓練を、全国的に実施されました。

戦争が激しくなるにつれて、日本国内は、食糧難となりましたが軍部の圧力が強く、学問より若人の体力作りに力が入れられ、全国的に、学生の体力検定(60kgの俵を担いで50mを何秒で走るとか、2,000mを何分何秒以内、上、中、初級等)が設定されたり、各学年毎のクラス対抗の4,000m耐久競争が毎月実施され、校長盾の争奪戦をやったり、シーズン毎に、クラス対抗の野球、水球卓球等、各スポーツ競技をやりました。

私自身はグライダー文部省改一型に搭乗して、空を飛ぶ事にあこがれて、灘商滑空班に、同僚の青島、未信弘(旧姓:奥田)、苅屋田等と共に入部し、部員25名で毎日曜日、阪急航空園(阪急電車西宮北口駅前)で、構文6教官より、訓練を受けました。

当時の竜神ヶ丘の校庭では、グライダーの滑走距離で問題があり、当初より、西宮航空園の格納庫でグライダーの組み立て、分解、点検、滑空、気象学等の講 習、訓練を受け、約1年間(通算、約50日間)で、最高高度18m、30度角のひねり、旋回飛行、滑空距離約500~600mの3級滑空士の免許までの苦 しかった訓練も、学生時代の良き思い出の一つとなって、現在も、空を飛ぶ快感(スリル)という言葉では表現できない楽しい印象が、未だ全身に感ずる思いです。

私達の学生時代は、戦時中で、運動部品も満足に入手し難い時代でしたが、各部ともそれなりに、部活動は活発でした。

神商同窓新聞・昭和48年11月1日 掲載

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